イギリスで生まれ、遠く離れた日本でも不動の人気を誇る近代競馬。大地を踏みしめ、風のごとく颯爽とコースを駆け抜けていく美しい馬たちの雄姿は、いつの時代も人々の心を惹きつけて離しません。
最近ではインターネット技術の進歩もあり、競馬場までわざわざ足を運ばなくても、自宅や職場からオンラインでも競馬 ベットを楽しめるようになりました。日本のみならず、イギリスやフランスといったヨーロッパ諸国やアメリカで活躍する『サラブレッド』と呼ばれる競走馬たち。オンラインでも世界中で活躍するサラブレッドたちのレースを楽しめますが、ここではその美しい馬たちの血統の歴史について探ってみたいと思います。
サラブレッドとは
サラブレッドの歴史は非常に古くからさかのぼります。サラブレッドという言葉は18世紀半ばにイギリスで使われはじめたもので、当時の先進的な飼育法を用いて作った新しい種類の馬が「サラブレッド」と呼ばれるようになりました。この種族の血統学的特徴は、完全な正規化された血統を備えていることが大きな特徴です。当時、サラブレッドはイギリスの王室や貴族の間で人気があり、特にロイヤルファミリーのメンバーたちはサラブレッドを愛用していました。やがて18世紀以降になると、サラブレッドはイギリス国内だけでなく海外にも広く普及していくこととなります。19世紀後半から20世紀初頭にかけては、サラブレッドはアメリカ合衆国やオーストラリアなどの各国でも人気を集めるようになりました。
三大始祖
実は、現在、世界中に存在するサラブレッド達の父系の血統をたどっていくと、すべて3頭の馬にさかのぼることができると言われています。この3頭の馬たちはサラブレッドの三大始祖(三大父祖)と呼ばれ、その馬名は、ダーレーアラビアン(推定1700年生)、ゴドルフィンアラビアン(またはゴドルフィンバルブとも呼ばれる。推定1724年生)、バイアリーターク(推定1680年生)と言います。
ダーレーアラビアンは、オスマン=トルコのアレッポ(現在のシリア北西部の都市)に当時駐在していたイギリス領事であったトーマス・ダーレーが、アラブの族長から買い取り、本国に送った馬であったと言われています。この父系はダーレーアラビアンから数えて5代目となるエクリプスという名の馬によって活気づいたため、エクリプス系とも呼ばれ、現在のサラブレッドたちの90パーセント以上もの占有率を誇る大父系に発展しています。
ゴドルフィンアラビアンは、北アフリカのバーバリーが生地といわれています。数奇な運命をたどった馬で、後世に伝わったエピソードには事欠かず、モロッコ皇帝からフランスのルイ14世に献上されながら、その後、なぜかうらぶれてパリ市中で散水車をひく荷役をやっていたとも伝えられています。現在、3大父系ではダーレーアラビアン系が圧倒的な優勢を誇っていますが、発展の足がかりをつくったエクリプスの母の父が、このゴドルフィンアラビアンです。
バイアリータークは、イギリスがハンガリーでトルコと戦争したとき、ロバート・バイアリー大尉が捕獲し、この馬名がつけられました。その後、大尉はこの馬で武勲を立てたといわれています。しかし種牡馬としては優秀でなく、すぐに消えてしまいそうな父系でしたが、バイアリータークから数えて5代目、ヘロドという馬の活躍によって消滅を免れました。ヘロドはエクリプスと同じカンバーランド公の生産馬で、1758年に生まれ、22歳まで生きました。前肢が弱く、ほかにも故障があって特記すべき競走成績はありませんでしたが、種牡馬となったヘロドは、一時期、エクリプスと並び称されるほどの立派な成績をあげました。
日本におけるサラブレッドの歴史
サラブレッドが日本に初めて輸入されたのは、明治10年のことで、 サラブレッドは、トロッター種の馬とともに米国から輸入され、下総御料牧場に繋養されることとなりました。 また明治40年には、小岩井牧場にイギリスからサラブレッド繁殖牝馬20頭が輸入され、こうして日本におけるサラブレッドの本格的な生産が開始されたのです。このとき小岩井農場に輸入された種牝馬のうち、ビューチフルドリーマー、フロリースカップ、アストニシメント、プロポンチスなどの子は特に優秀で、これらの小岩井農場の基礎輸入牝馬の子孫は現在にまで連なり、日本でのサラブレッドによる競馬は、間に戦争などによる中断を挟みながらも、現代にいたるまで連綿と続けられています。